かとうトリビューンがお届けする【世界に一つ!加東遺産】シリーズ第7回。
今回は、観音寺と赤穂義士菩提所(あこうぎしぼだいしょ)について詳しく紹介します。
観音寺と赤穂義士菩提所
観音寺は、山号を大悲山という臨済宗妙心寺派の寺院です。開基は貞享3年(1686年)で、元禄12年(1699年)には十一面観音菩薩立像を本尊とし、本堂が建立されました。当時の領主は赤穂藩浅野家でした。
その後、寛文11年(1671年)に当地が浅野長賢(ながかた)に分知され、3500石の旗本として家原に陣屋を置く家原浅野家として幕末まで知行し、代々観音寺を尊信していたといいます。
元禄14年(1701年)浅野内匠頭長矩(ながのり)の殿中刃傷により赤穂浅野家は断絶となりましたが家原浅野家は廃藩まで七代200年続きました。
赤穂四十七士の義拳から150年を控えて弘化4年(1847年)供養墓碑が建立されました。以来今日まで、毎年12月14日は、赤穂義士の忠誠を讃えて義士祭が盛大に営まれます。
明治維新後は同家の庇護を離れたことから、寺も暫く荒廃していましたが、明治17年に西田玄学禅尼の尽力によって再興され現在に至っています。
加東四国八十八か所の第86番霊場です。巡礼は観音寺から社市街地を北上して、第87番「善龍院」、結願の第88番「持寶院」へと進みます。
【赤穂事件:忠臣蔵とは】
江戸時代の頃、時は元禄14年(1701年)。
赤穂藩の藩主浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)は勅使供応役(天皇の使者を江戸城でもてなす係。高家とも言う。)の任務を受けており、高家筆頭(代表)の吉良上野介から礼儀作法の指導や指示を受けながら、天皇の使者をもてなしました。しかし吉良上野介は指示だけでなく、様々な嫌がらせを浅野内匠頭にしました。
我慢に我慢を重ねていた浅野内匠頭も堪忍袋の緒が切れ、3月14日江戸城の松之廊下(本丸御殿から将軍対面所までの50m、幅4mの大廊下。畳敷きで襖絵に松と千鳥が描かれていたため松之廊下と呼ばれる。)で吉良上野介を斬り付けてしましました。
当時の決まりでは喧嘩両成敗が基本でしたが、徳川五代将軍綱吉は浅野内匠頭を切腹にし、赤穂藩を取り潰した一方、吉良上野介には全く罰することをしませんでした。
赤穂浅野家では、浅野家の再興と上野介への処罰を求めましたが、幕府の裁定は覆されませんでした。
浅野家筆頭家老の大石内蔵助は『吉良上野介を討取り、浅野内匠頭の無念を晴らす』ことにしました。お金もなく毎日の生活も困窮する中、様々な誘惑に負けることなく敵討ちの意思を持ち続けることができた義士は47人でした。(赤穂義士と呼びます。)
浅野内匠頭切腹から1年10ヶ月後の元禄15年(1702年)12月14日夜、吉良上野介の在宅を確信した赤穂義士は吉良邸へ討入りました。義士たちは山鹿流の兵法(「仇討ちは、天下の大道にて目のある場(衆人環視)で討ち果たすが手柄と云うべし。」と説いた山鹿素行の兵学。山鹿流兵法は幕末の吉田松陰や高杉晋作、木戸孝允などに継がれている。)に従い、表門と裏門から同時に攻入り、そして3人一組で吉良上野介を探しました。夜明け前になって物置にかくれ潜んでいた吉良上野介を見つけ出し、敵討ちに成功。
そして義士たちは泉岳寺(せんがくじ、徳川3代将軍家光の命を受け、浅野氏らが再建した。東京都港区)にある浅野内匠頭の墓前に吉良上野介の首を供え、討ち入りが成功したことを報告しました。
討入から約2か月後の元禄16年(1703年)2月4日、赤穂義士は切腹。義士たちの希望により泉岳寺にある浅野内匠頭の墓の近くに埋葬されたのです。
これらの赤穂事件という史実に基づき、色々と脚色され、創作されながら芝居などが上演されました。そして人気を不動にしたきっかけが、寛延元年(1748年)8月に上演された人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』でした。類を見ないといわれるほどの大入りとなり、同じ年に歌舞伎の演目としても取り入れられています。そして令和の今日まで、その人気は薄れることはありません。
日本人の心に刺さったのか。悲劇的な主人公をつい応援したくなる「判官びいき」、弱い者が強い者を打ち負かす爽快感、献身的で自己犠牲の精神、そして最後は皆切腹となる「散り行く美学」。赤穂事件という現代で言わばテロ事件が皆に愛され320余年経った今でも演劇、小説、テレビ、映画で語り継がれ、海外でも武士道や日本の美学として注目される時代を超えたコンテンツとなっています。
【家原浅野家】
赤穂浅野家は、浅野長政の三男・長重(ながしげ)に始まり、長重の子長直(ながなお)が赤穂へ移って初代となります。この長直の孫に当たる3代目が、赤穂事件の浅野内匠頭長矩です。
赤穂藩初代長直には継子がいなかったため、松平玄蕃頭清昌の5男長資(ながなた)を養子に迎えました。
しかし、長直に実子(長友)が生まれたので、養子縁組条件の通り、二男として赤穂浅野家所領である播磨国加東郡の内、3,500石を分知され寄合い(直参旗本)となりました。
寛文11年(1671年)3月5日のことです。
ここに家原浅野家が始まります。
- 初代:浅野 長賢(ながかた)【1634~1687】
長賢は交代寄合の松平(竹谷)清昌の五男。従兄弟の浅野長直の養子になりました。10歳の1643年に長友が産まれると長賢は次男扱いになりました。38歳の1671年に弟長友から三千五百石を分与されて分家しました。1686年に53歳で隠居しました。享年54歳。妻は上野七日市藩主 前田利孝の娘。 - 二代:浅野 長武(ながたけ)【1663~1712】
長武は本家家臣大石良重の四男で、母は浅野長直の娘。
叔父浅野長賢の養子になりました。1686年に24歳で相続しました。御持弓の頭をつとめました。享年50歳。
妻は長賢の娘。後妻は旗本 甲斐庄正親の娘。 - 三代:浅野 長時(ながとき)【1707~1782】
浅野長武の子。
1712年に6歳で相続しました。火事場見廻をつとめました。1746年に40歳で隠居しました。享年76歳。
妻は旗本 金田正澄の娘、のち離婚。後妻は旗本 中根元宴の娘。 - 四代:浅野 長充(ながみつ)【1724~1790】
長充は旗本 藪忠通の三男で、母は紀州藩臣 藪利安の娘。
1746年に23歳で相続しました。小姓組番頭、書院番頭をつとめました。1784年に61歳で隠居しました。享年67歳。
妻は浅野長時の娘。 - 五代:浅野 長富(ながとみ)【1748~1816】
長富は長充の子で、母は浅野長時の娘。
1784年に37歳で相続しました。大番頭、駿府城代、西丸側をつとめました。
妻は越前敦賀藩主 酒井忠香の娘。 - 六代:浅野 内記【?~?】
1816年に相続しました。 - 七代:浅野 長祚(ながよし)【1815~1880】
1831年に相続しました。京都町奉行(西:1852~1858)、町奉行(北:1862~1863)、西丸留守居をつとめました。
赤穂浅野家は、当時加東郡域には24ケ村(8201石)がありました。(小野市1ケ村含)
上三草、下三草、牧野、曽我、多井田、北野、穂積、木梨、河高、野村、上田、大門の12ケ村と家原赤穂家として分知された11ケ村(鳥居、貝原、垂水、窪田、中村(上中)、梶原、北村(喜田)、家原、沢部、福吉)です。
赤穂浅野家の郡代は赤穂義士の一人、吉田忠左衛門が務め、穂積に郡代役所が置かれました。
明治に到るまで、家原浅野家は続き、最後の領主が梅堂浅野長祚(ながよし)です。
梅堂は家原浅野家7代で、幕臣として多難な時代に幾多の要職を歴任し、慶応2年(1863年)8月御役御免、翌年致仕し、向島に隠居しました。この間、京都町奉行時代には、安政度御所造営という大きな仕事に携わっています。明治なってからは、新政府へ出仕することもなく、文雅の世界に晩年を過ごしたようです。そして明治13年(1880年)2月17日、65歳でなくなりました。法名を文荘院殿梅堂帰夢軒居士といいます。谷中天王町の天台宗安立院に葬られました。ここに家原浅野家は終焉となりました。
【赤穂義士菩提所】
赤穂義士菩提所:市指定文化財
家原浅野家当主(7代)浅野長祚(ながよし)の時、観音寺の住職を兼帯していた善龍院の住職だった明範が熱心に赤穂義士の遺勲を呼びがえらせ、忠考の誠を振興しようと、四十七義士の供養墓碑建立を呼びかけました。
これに応じて、北播磨の旧赤穂藩領の村々を中心に、武士をはじめ多数の百姓・町人たちが寄附を申し出たのでした。
住職明範は浅野長祚に相談、同氏の祈願所観音寺境内に建立することにしました。
浅野内匠頭らの石碑を中心に、その両脇に大石内蔵助、主税父子、そして四十七士の石碑がこれを取り巻く形で祀られ、義士信仰の熱烈さを窺い知ることができます。
【観音寺薦誠碑】
菩提所の入り口に、浅野長祚(ながよし)により薦誠碑が嘉永元年(1848年)に建立されました。碑文には、建立のために寄付を募った善龍院の僧、明範の依頼で、長祚が書いたもので、四十七士の墓碑建立の経緯、明範の呼びかけで、義士を偲びその忠義を讃える人々の寄付によって建立されたことなどが書かれています。
この碑に感銘を受けた帰正館(小野藩一柳家)の野々口正武らの歌碑も嘉永3年(1850年)に建立されています。
【家原陣屋】
寛文11年(1671年)、赤穂浅野家より浅野長賢に分知された家原浅野家は、千鳥川左岸の家原に陣屋を築きました。
しかし、現在、家原陣屋の跡地は、旧状を全く留めていません。かつては堀や土塁・矢場などの遺構が残っていたといいます。
長賢は交代旗本松平清昌の子で、赤穂浅野家初代藩主浅野長直の養子となりましたが、長直に実子長友が生まれたため家督を継がず、寛文11年に長友より3,500石を分知され旗本に列しました。以後、家原浅野家は、7代長祚まで代々この地を領して明治維新まで続きました。長祚は明治13年に没しています。
【赤穂藩穂積陣屋】
穂積陣屋は、寛永年間姫路城主本多氏によって所領支配のための代官所として築かれ、元禄4年(1691年)に播磨赤穂の浅野長矩の所領となり、加東・加西郡の所領支配の郡代役所として使用されました。
吉田忠左衛門が加東郡代として在所しました。浅野家断絶後は一時天領となりました。
元禄16年(1703年)に旗本八木丹波守勘十郎の陣屋となり、八木但馬守太三郎、八木但馬守十三郎と三代続いて明治に至っています。
穂積陣屋は現在何も残っていませんが、正門は了徳寺(加東市高岡)の正門として現在も見ることができます。
【加東市赤穂義士祭】
菩提所が設けられてから、義士追善法要が営まれてきました。
昭和2年(1927年)に「義士会」が結成され、現在も12月14日に続けられている義士祭は、当時を偲んで多くの参拝者で賑わい、北播磨一円の義士顕彰の拠所となっています。
そもそも義士祭は昭和のはじめ頃、社町青年団が中心になって始めたもので、義士に扮した青年団員の写真なども伝わっています。
駅伝は加東郡(加東市と小野市域)の青年団の一大行事だったらしく社町商工会の駕籠かき競争もあったと聞いています。
現在は、加東市赤穂義士奉賛会によって義士祭が行われ、義士追悼会、中学生の駅伝大会、少年剣道大会、甘茶接待、福引きなどが催されています。
どうぞ、みなさんお揃いでお越しください。
令和6年度 赤穂義士祭
日程:令和6年12月14日(土)
場所:大悲山観音寺(加東市家原)
9:00~甘酒接待
9:30~福引き
10:30~義士追悼会
<協賛事業>
10:00~加東市中学校駅伝大会
14:00~少年剣道大会
【世界に一つ!加東遺産】次回もお楽しみに
【世界に一つ!加東遺産】シリーズ第7回は観音寺と赤穂義士菩提所について詳しく紹介しました。
次回の更新をお楽しみに。
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(画像使用:加東市観光協会データベースより)