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【世界に一つ!加東遺産】#006 五峰山光明寺

かとうトリビューンがお届けする【世界に一つ!加東遺産】シリーズ第6回です。

五峰山光明寺

今回は、高野山真言宗の寺院・五峰山光明寺(ごぶさんこうみょうじ)について詳しく紹介します。

五峰山光明寺

観光協会ページ
所在地:兵庫県加東市光明寺435
TEL:0795-48-2049(花蔵院)

【山号・五峰山のいわれ】

光明寺空撮

加古川の流れによって形成された緩やかな平野や丘陵を見下ろす急峻で中国山地への起点となる部分に広がる宿尾(ふとお)・明星が辻・経(きょう)の尾・大岩・弥木揚(やきあがり)という五つの峰を合わせて、光明寺の山号とする五峰の名称が生まれました。

その中央にあたる標高約260mの宿尾に法道仙人開創と伝える光明寺本堂が建立されています。

五峰山の五つの峰

  1. 宿尾:本堂があるところ付近
  2. 明星が辻:大慈院の西。東光苑と呼ばれる見晴台。星がよく見える。
  3. 経の尾:明星が辻から下。なだらかな様がお経のよう。
  4. 大岩:遍照院の裏。大きな岩がある。大岩稲荷と呼ばれている。
  5. 弥木揚:花蔵院の裏か駐車場の下付近か不明。

【歴史背景】

光明寺本堂

光明寺は播磨髙野といわれ古義真言宗の名刹で、今を去る約千四百年の昔、推古天皇2年(594年)にインドの行者、法道仙人によって開創されました。一時は多くの伽藍を擁し隆盛を極めましたが、それらは全て焼失しました。現在の建物は江戸時代以後のものです。

本尊は十一面千手観世音菩薩で、新西国第二十八番、播磨西国第十八番の観音霊場として広く信仰を集め今日に至っています。

昭和初期に書かれたらしい五峰山光明寺全景図

昭和62年9月発行「五峰山光明寺」より

実際に光明寺へ(駐車場~本堂)

ここからは光明寺を参拝する際のルートを、詳しい解説と共に紹介します。実際に訪れる際の参考にしてください。

【駐車場~漱水舎】

石門

中国自動車道滝野社インターから車で10分。道路標識をたよりに辿り着いた表参道石門が目に入ります。

五峰山の中腹にある駐車場に車を停めると、南向きの展望台からは眼下に加東市を見下ろせ、加古川の流れを見ることができます。

駐車場より

天気の良い日は、六甲山から遠く明石海峡大橋の橋脚など雄大な眺めが楽しめます。ご来光には多くの人で埋め尽くします。

加東市の応援歌「勇躍加東」の歌詞そのままです。「播磨高野に佇めば、パノラマひと目望みたる・・・・」

山門

駐車場から「五峰山」「光明寺」と刻まれた山門をくぐると、漱水石(手水鉢)があります。

漱水石(手水鉢)

まず、手を洗い口をすすいで身を清めましょう。

地蔵堂

漱水舎の前にあるのが地蔵堂で享保15年(1730年)に寄進された地蔵菩薩立像が祀られています。

傾斜の大きい坂道

うっそうとした森の中スダジイ、コジイ、アラカシなどが茂る照葉樹林で「ひょうご森林浴場50選」にも指定されています。

傾斜の大きい坂道ですが、手すりが完備されたので少し安心して登ることができます。

【参道】

参道の左右には4つの塔頭があります。

●多聞院(たもいん)

本尊は薬師如来を祀ります。毘沙門堂には、本尊毘沙門天と脇士に善賦師童子と吉祥天を安置。

5、6月頃には、竹林の緑があざやかです。

多聞院正面庫裡
多聞院毘沙門堂

●遍照院(へんじょういん)

本尊不動明王、重文銅造如来座像を安置。

銅造如来坐像

銅造如来坐像

遍照院に安置されており、毎年5月3日の花まつりに一般公開されます。平安初期の作で、昭和56年に国の重要文化財に指定されました。
像高24.2cmで重さ6kg、眉は長く、目も切れ長で、鼻はすっきりとおり、口は小さめ。頭部は大ぶりで胸部の肉付きが豊かであり、この時代(平安時代前期)の特徴をよくあらわしています。

●大慈院(だいじいん)

左奥に行けば見晴らし絶景の明星が辻、東光苑へ出ます。

大慈院正面庫裡

日本一幅善導大師自画像

善導大師

善導大師は唐の人で、中国浄土教の大成者です。大師ゆかりの地、長安の光明寺を偲んでここに奉納されました。
大慈院・善導大師堂の奥の院に「日本一幅善導大師自画像」が保存されており、毎年5月3日の花まつりに一般公開されます。

●花蔵院(けぞういん)

本尊不動明王を安置、門を入ると左の一隅を敷き詰めている苔は、雨の多い6月頃に最も鮮やかで美しくなります。

花蔵院正面庫裡
苔が生い茂る

【仁王門~本堂】

仁王門前参道

花蔵院の白壁沿いに歩いているとやがて色鮮やかな仁王門が見えてきます。

現在の仁王門は、元禄6年(1693年)に山麓から今の場所に移転して再建されたものです。その後、老朽化のため昭和56年に全面的に解体し、その資材を使って復元改築されました。

仁王門

仁王門をくぐり本堂を目指します。

■文殊堂

文殊堂

天和2年(1682年)に再建された光明寺の建造物としては、現存する最古のものです。

昭和57年(1982年)に屋根の葺き替えのほか、正面唐破風の向拝を増築されました。学徳成就進学祈願の知恵文殊菩薩坐像が祀られています。

■山上鎮守社

山上鎮守社

一間社流造の建物で創建は明らかではありませんが、昭和56年(1981年)に屋根の葺き替えが行われました。

五峰山光明寺の守護神として熊野権現を勧請奉祠しています。

■常行堂

常行堂

嘉祥年間仁明天皇の勅願により慈覚大師が創立。至徳3年(1386年)に再建されたのが焼失、現在の建物は安永8年(1779年)の改築です。

方4間、本瓦葺き、宝形造り、本尊阿弥陀如来と脇士に観音・勢至の二菩薩を安置。諸大名並びに十方施主の霊碑も祀っています。

■梵鐘堂

梵鐘堂

寛保2年(1742年)に建立。東大寺正面の六角燈籠の妙音菩薩を写した美術梵鐘で、昭和33年(1958年)に再建されました。法音は大きく山に響き、余韻は長くして空に消えます。

※現在改修工事が行われており、令和6年末には新たな姿を見ることができます。

■本堂:国登録有形文化財

本堂:国登録有形文化財

前の本堂は安政6年(1859年)に焼失、この建物は大正14年(1925年)4月、大正から昭和を代表する建築家である故武田五一博士の設計により、鎌倉時代の建築様式をもって再建されたものです。

屋根は銅板葺きの入母屋造りで九間四面(270㎡)の広さを持つ。周囲を勾欄つきの縁で廻しています。また正面には4本の向拝柱があり、その上からの虹梁は、大きく弓型に曲がってなかなか見事です。簡素ですっきりした雄大な鎌倉時代の建築様式をよく伝えています。

宮殿

内陣の宮殿には法道仙人の作と伝えられている本尊千手十一面観世音菩薩と脇侍として不動明王と毘沙門天王の二尊像を奉安しています。又脇壇には当山開基法道仙人・聖徳太子・宗祖弘法大師の各尊像も合わせて安置してあります。

外陣は畳敷きで一山の主なる法要は、ここに於いて厳修されます。新西国第二十八番、播磨西国第十八番の霊場でもある。また、加東四国八十八ヶ所の1番霊場でもあり、当山最高の宿尾の峰にあります。

本尊十一面千手観世音菩薩坐像 木造

本尊十一面千手観世音菩薩坐像

本来は千手ですが、普通は数理的に簡略されて42手になっています。
それらの手には各々眼があり、それぞれ異なった持ち物を握っています。さらに頭上には慈悲忿怒(じひふんぬ)、嘲笑の種々相の小さい九面と、その頂に一面があります。これらは迷える衆生(しゅじょう)を救うための方便を形に表したもので慈悲の働きが広大無限であることを示しています。
昔から圧倒的な信仰を集めてきた蓮華王の仏で、典型的な密教の菩薩像です。端正な表情は神秘、印象的でしかも優しさが感じられます。

光明寺合戦

吉野南北朝時代に足利尊氏と弟直義との不和から生じたいわゆる光明寺合戦は有名で、太平記や播磨鑑に詳しい。

【光明寺合戦本陣跡】

光明寺合戦本陣跡

観応2年(1351年)2月、足利直義方の石塔頼房(いしどうよりふさ)が五千余騎で当山にこもったとき、本堂及び本堂の裏手あたりに本陣が置かれたと推定されます。

往時の光明寺は、本堂の西と南に僧房が集まり、表参道や仁王堂も南の山腹にあったらしく、そのため、寄手の総大将・足利尊氏は引尾山に布陣し、高倉尾から仁王堂を攻めました。つまり、こちらが大手でした。

寄手と城方愛曽(あいそ)伊勢守が激しく戦ったのも仁王堂付近で、表参道が東坂に移り仁王門が現在地に建てられたのは、近世初期と思われます。

【高家無文の白旗】

観応2年(1351)2月、光明寺で足利尊氏と石塔頼房(足利直義方)が対峙した。その時、無文の白旗が風に乗って飛来しました。これは八幡大菩薩の奇瑞(きずい)と両軍が旗の行方を見守っていると、尊氏方の高(こう)武蔵守師直(もろなお)の陣に落ちました。喜んだ師直が甲を脱いで受けて見ると、二首の歌が書かれていました。

吉野山 峯の嵐の 激しさに 高きこずえの 花ぞ散りゆく
限りあれば 秋も暮れぬと 武蔵野の 草はみながら 霜かれにけり

人々は「高きこずえの 花ぞちりゆく」とは高一族の滅亡を、また、「武蔵野の 草はみながら 霜かれにけり」は師直の任国名を意味し、不吉な歌だと噂しあいました。

まもなく寄手は戦に利あらず退陣し、尊氏は弟の直義と和睦したが、師直・師泰兄弟は処刑されました。

【山鳩の霊夢…三本杉のふしぎ・閼伽井の井戸水】

閼伽井

光明寺合戦の折、城方の愛曽伊勢守に仕える子供に神がのりうつり、こう叫びました。「わたしは、伊勢大神宮である。この城を守るために、三本杉の上にいる。私のいる限り、落ちることはない。高師直・師泰らは7日のうちに滅びるであろう。ああ熱い。この三熱の炎を冷まそう」と叫び、閼伽井の井戸に飛び込んだところ、井戸水は湯のように沸き返ったといいます。

三本杉

寄手に加わっていた播磨の豪族・赤松朝範(とものり)は冑を枕の仮寝で不思議な夢を見ました。寄手一万余騎が一時に押し寄せ垣楯(かいたて)に近づいて火を放ちました。すると、八幡山(京都府)・金峰山(きんぶざん:奈良県)の方から山鳩数千羽が飛来、翼を水に浸し、櫓・垣楯に燃え広がる火を打ち消してまわりました。

あまりの不思議さに、夢からさめた朝範は父の則祐(そくゆう)にこの事を話しました。「やはり、この城には神明のご加護があるようだ。とうてい攻め落とすことはできまい。」と父は八幡山(加東市河高)の陣を払って白旗城(赤穂郡上郡町)へ帰ってしまいました。これが、寄手敗退の糸口になったと伝えられています。

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【世界に一つ!加東遺産】次回もお楽しみに

【世界に一つ!加東遺産】シリーズ、第6回では五峰山光明寺について詳しく紹介しました。

次回の更新をお楽しみにお待ちくださいね。

(画像使用:加東市観光協会データベースより)