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【世界に一つ!加東遺産】#004 佐保神社

かとうトリビューンがお届けする【世界に一つ!加東遺産】シリーズ。

今回は、加東市社にある佐保神社の歴史を紐解いていきましょう。

佐保神社

公式サイト
所在地:兵庫県加東市社777
TEL:0795-42-0406

佐保神社

佐保神社
拝殿(画像引用:佐保神社公式サイト)

醍醐天皇の朝に藤原時平、忠平等が選定した延喜式の神名帳には、播磨國賀茂郡(今の小野加東加西の3市)の官社八座の中には坂合神社の名が。

このことから分かるように佐保神社はもともと「坂合(さかあい)神社」と呼ばれており、いつごろに現在の「佐保神社」となったのかは不明。

また、この神社にちなむ「佐保社郷」という荘園名から「やしろ」の名が起こったと言われています。

御祭神

  • 中殿:天児屋根命(あめのこやねのみこと)
  • 東殿:天照大神(あまてらすおおみかみ)
  • 西殿:大己貴命(おおなむちのみこと)

【御由緒】

(提供:加東市観光協会)

創建は第11代垂仁天皇23年(紀元前76)、鎌倉峰(加西市河内町付近)。

のち、奈良時代の初め養老6年(722年)に播磨国造の系譜を引く阿倍野三郎太夫という翁に神託があり、現在の場所に遷座したということです。

以来、旧社町、旧滝野町、小野市の一部にまたがる拾い範囲にわたり、氏神様として人々の信仰を集め、旧加東郡随一の大社で、承元4年(1210年)にはすでに播磨有数の神社として知られていました。

(提供:加東市観光協会)

とりわけ鎌倉時代には尼将軍として有名な北条政子当神社を崇敬し、本殿の再建や四方に八基の鳥居を建てさせたりしていることから著名な神社であったことがわかります。

なお現存する鳥居はありませんが西の内の鳥居は石造りに変わり約 1.2km西の道路脇に残存しており、「鳥居」という地名はこれに由来します。

鳥居があったと云われる地域

(提供:加東市観光協会)

内の鳥居の位置

  • 東:嬉野地区
  • 西:鳥居地区(現存している石鳥居)
  • 南:松尾地区
  • 北:上中地区

外の鳥居の位置

  • 東:依藤野地区
  • 西:笹野地区
  • 南:久保木地区
  • 北:曽我地区

戦国時代の争乱により社領は荒廃し天文16年(1547年)には火災にあい神殿すべてが消失しました。

その後永禄7年(1564年)に神殿を再建しましたが昔日の壮観はついに望むことができなくなったと言われています。

佐保神社
瑞神門(画像引用:佐保神社公式サイト)

江戸時代には姫路城主池田輝政公の祈願所として社領十石を寄進され、さらに幕府より御朱印社領十石を賜るなど、ようやく神社も再興し、近郷の人々の生活の中心となり、門前には京街道が通り、宿屋などもあって栄えていました。

明治維新を経て明治14年(1881年)縣社に指定されました。なお、戦後この制度は廃止されました。

【本殿保存修復工事】

(提供:加東市観光協会)

現在の本殿は江戸時代の延享4年(1747年)に再建されたものです。

三間社流造正面千鳥破風・軒唐破風付銅板葺で幣殿・拝殿・瑞神門とともに、華麗な彫刻で飾られています。

・構造補強

昭和40年に台風で傾き、その後鉄骨支柱で補強されていました。

構造計算の結果、耐風性能が不足していたため今回床下に基礎の重しを打設して、フラットバーで柱と接合、外から見えないよう工夫します。

・屋根の復原

(画像引用:佐保神社公式Facebook)

現状は銅板葺きとなっていますが、当初は檜皮葺きでした。

文化財としては檜皮葺きに復することが理想ですが檜皮葺きは葺き替えサイクルが早く、将来の経済的負担が大きいため、文化財の永続的な保存を考え、銅板葺きのままとします。

本殿棟札

(提供:加東市教育委員会)

現在の本殿棟札は記録にはのこっているものの、所在は不明。

小屋裏には、昭和48年の火災で焦げた前身の棟札(弘治2年、1556年)が打ち付けてありました。

推測ですが、前身棟札は比較的低い位置にあり、何かと残ったものの火災後修理で棟木が取り替えられていることから、火災で焼けたのではないかと思われます。

佐保神社は現在、修理後の文化財指定を目指して、重要文化財同等の修理の最中。

できるだけ部材を残し、当初の技法を用い、並行して文化財調査を行いながら工事が進められており、令和7年3月末日に竣功祭を迎える計画です。

【秋まつり】

(提供:加東市観光協会)

毎年体育の日の前日の本宮には、屋台や獅子舞などが奉納されます。

北播磨有数の規模であり、多くの人々が参詣し、非常なにぎわいを見せる一大イベントです。

佐保神社の秋祭りには、2台の神輿と、新町、上中、上組、下組から4台の布団屋台が練り出され、大門地区の獅子舞が奉納されます。

宵宮は夕刻頃から屋台の町内巡行が行われ、本宮は午後1時から神輿、屋台の宮入りが始まり、屋台が境内に据えられると、大門地区の獅子舞が奉納され、屋台の宮出しが行われます。

佐保神社の屋台は、軽快な伊勢音頭のリズムによって練り廻されることで知られています。

大門(提供:加東市観光協会)
上中(提供:加東市観光協会)
新町(提供:加東市観光協会)
上組(提供:加東市観光協会)
下組(提供:加東市観光協会)

屋根の部分に反り返った大座布団を重ねていることで「布団屋台」と呼ばれています。

戦前の頃は10台程の屋台が佐保神社に宮入りしていたそうですが、現在は4台になっています。

【やしろ町場(まちば)の発展】

河岸段丘の中位にある町場やしろの起源は古く、式内・佐保神社の門前まちがその起こりです。

その昔、社地域一円は由羅野(ゆらの)あるいは広野(ひろの)と呼ばれる原野でしたが、同社の鎮座以降、次第に人びとが集まり開発がすすんでいきました。

中世の社は、近在の人々が生活物資を購入するために集まった六日市(むいかいち)として栄えたようです。六日市とは、各月のいわゆる六斎日(8日・14日・15日・23日・29日・30日の6日をいう)に商人たちが参集した物資交易の市場のことです。

したがって、店舗を構えた商家はほとんどなかったと思われます。六日市の場所は、現社小学校のあたりであったらしく、地名(小字名)として残っています。

近世の社村は、村高959石余、幕府領のち清水家(御三卿)領として、次第に町場の様相をととのえ、商品流通の発展を背景に店舗をかまえる商家が出現します。

その数は、慶長6年(1601)45戸、宝歴13年(1763)58戸、寛政11年(1799)127戸、天保3年(1832)88戸、弘化3年(1846)97戸、文久4年(1864)96戸と漸増。

もはや門前町の域を脱して、北播磨第一の在郷町に発展しました。

商店街がいわゆる門前に発達せず、神社の横に沿う形で南北に形成されたのは、門前が狭い地形によるためです。

佐保神社の古地図

(画像引用:大正12年刊『佐保神社誌』)

神社の東側に商店街が形成されています。

明治初年に、はやくも兵庫県庁社出張所・明石警察署社分駐所が設置されるなど、近代に入っても各種官公庁の所在地として今日に至っています。

ちなみに、国県などの出先機関をはじめとする官公庁は40余。

また、国道175号と372号が交叉する交通の要衝であり、北播磨の中心であることは今もかわりません。

【竿の先で拾った神様】JAみのり『みのりの民話集100』より

(画像引用:JAみのり『みのりの民話集100』)

昔、小部野(おべの:加東市野村の一部)に三郎兵衛(さぶろべえ)という人が住んでいたそうです。魚つりが大好きで、暇があると大川(加古川)へ出かけていました。

ある日のこと、いつものように糸をたれていますと、川上から白く細長いものが流れてきました。

「しめた!うなぎにちがいない」

こう思って、竿の先で引き寄せてみますと、大きな蛇の死骸でした。三郎兵衛はそのまま流してしまうこともできず、途方にくれてしまいました。

というのは、その当時、白い蛇は神様の化身だと恐れられていたからです。そまつに扱えば、どんなたたりがあるか知れません。

いろいろ考えましたが、良い方法も浮かびません。

「えい、こうなれば、しかたがない」

なかばやけになった三郎兵衛は、蛇の死骸をふたたび竿の先に引っ掛けて投げ捨てました。死骸は、少しはなれた田の中に落ちました。

すると、青々と茂っていた稲が、真っ白になって枯れてしまいました。怒ったのは、村人たちです。

「なんということを、するのだ」

すごい剣幕で怒鳴りつけられた三郎兵衛は、またまた竿の先に蛇を引っ掛け、捨て場を探しに出かけました。蛇の頭が向いていた方角、東の方へ向かって歩いて行きました。

途中、夜がふけたので、西垂水村の下池の近くにあった杉の大木の下で、蛇を持ったまま夜を明かしました。下に置くとたたりがあるからです。

そこが、今も神としてまつられている立明神社(たちあかしじんじゃ)だといいます。

夜が明けると、また歩き出しました。そして、広野(社の旧名)の小高い丘まで来たとき、急に重くなって進めなくなりました。

「さては、ここに埋めて欲しいのやろ」

三郎兵衛は、その場に蛇を埋めて小さな社を作りました。村人たちは、竿の先で拾った神様ということで、サオサキ神社と名づけました。

それが、だんだんと訛って、とうとう佐保神社(さほじんじゃ)になったと伝えています。

また、小部野にもお宮を建て、竿先神社と呼びました。そのご神体には、三郎兵衛大神と書かれているそうです。

佐保神社の本殿右手にある「先宮(さきみや)神社」は三郎兵衛(三郎太夫)を祀る社で、竿の「先」にちなんで「先宮」神社と呼ばれています。

【山氏神社(通称やもりさん)】

御祭神

  • 山氏大権現(大山祇神:おおやまつみのかみ)
  • 日本武尊(やまとたけるのみこと)
  • 神霊(多田四郎頼通の霊)

【御由緒】

(提供:加東市観光協会)

垂仁天皇23年(紀元前1世紀末の頃)山氏大権現が鎮座されたと伝えられており、播磨鑑には県社佐保神社の末社として記載されています。

元は佐保神社と同一神域内にありましたが、その内に佐保社村が成立し、その発達とともに、山氏神社の境内は佐保神社境内より飛地となりました。

しかし、故あって、肥田氏がこの地の経済上の事を取り仕切っていたので、明治7年2月に独立の神社として取り扱われるようになりました。

・日本武尊(やまとたけるのみこと)の伝説(白鳥伝説)

(提供:加東市観光協会)

仲哀天皇の頃(142~270)、この山内へ志良鳥理(白鳥)が来て住むようになりました。

これを聞かれた天皇が白鳥を生け捕りにして献上するように命令され、住民たちは生け捕ろうとしましたが白鳥は飛び去り行方しれずになりました。

そこへ一人の翁が忽然と現れ「これは日本武尊の神霊である。この山内へ勧請してお祀りせよ」と告げて姿を消したことから、この地に祀られているといいます。

・義経と山氏神社

(提供:加東市観光協会)

1184年2月4日の深夜から翌5日の早暁にかけての「三草山合戦」に勝利した義経は、ここ佐保神社境内(当時は佐保神社と山氏神社は同一境内)において休憩し、兵を整えたと云われています。

その際、この後の一の谷の合戦の勝利を祭神の日本武尊に祈願し、一本の松を植樹しました。それが境内に残る「義経公お手植えの松」です。

また、その後、願いが叶えられたお礼に「5石の米を永代寄付する」旨の古文書(文治2年・1186年11月・和田義盛花押)が残されています。

※和田義盛:搦め手・義経隊の侍大将の一人として一の谷の合戦に参加(平家物語に記載あり)、後、鎌倉幕府の別当職に就いています。

(提供:加東市観光協会)

現在、玉垣で囲まれた一角に松を見ることはできません。石柱に「九郎判官源義経公
御手植の松」と刻まれています。

・肥田姓の始まり

寿永3年(1184年)2月、源義経が三草山での合戦後、社村の豪族多田将監(しょうげん)の屋敷で疲れを癒やしました。

その際、源氏の侍大将土肥次郎実平(さねひら)嫡男の弥太郎遠平(やたろうとおひら)は三草山で受けた傷が深かったため、多田屋敷にとどまり養生をすることになります。看病したのが将監の娘、お八重さんでした。

義経は「幸いなるかな、土肥弥太郎は未だ定まる妻これなく、多田の息女と婚礼を致すべし」と勧めました。

二人の間に生まれた子どもには土肥の肥と多田の田を組み合わせ、肥田という家を名乗らせたといわれています。

【世界に一つ!加東遺産】次回もお楽しみに

【世界に一つ!加東遺産】シリーズ、第4回では佐保神社について詳しく紹介しました。

今後もかとうトリビューンでは世界に誇る加東遺産をどんどん取り上げてまいります。

次回もお楽しみに。

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