かとうトリビューンでついに新企画始動。
【世界に一つ!加東遺産】シリーズと題し、第一回は闘竜灘と鮎漁について紹介します。
【世界に一つ!加東遺産】闘竜灘
兵庫県を南北に貫流する一級河川・加古川の中流域に位置する闘竜灘。
川床いっぱいに奇岩・怪石が広がり、その岩に阻まれた川の流れが作り出す激流や滝が特徴です。
闘竜灘の名の由来
もともと「双龍灘」と呼ばれていた闘竜灘。
生涯で5,000首以上の詩を作った江戸時代後期の漢詩人・梁川星巌(やながわせいがん)が詠んだ漢詩をもとに、現在の名が付けられたといわれています。
闘竜灘
一道(いちどう)の飛瀧地(ひりゅうち)を劈(つんざ)きて開き
怒声豪勢風雷(どせいごうせいふうらい)と闘ふ
秋は千巌(せんがん)に入りて霜葉麗(そうよううるは)し
玉龍(ぎょくりゅう)躍り出でて錦雲(きんうん)堆(つ)む
彼は闘竜灘を見て”岩をかんで激しく流れる滝は、まるで竜が闘うようである”とうたいました。
闘竜灘の歴史
豊臣秀吉が天下統一後には、大坂が新しく日本の政治・経済の中心になりました。
しかし東播磨や丹波の物資を大量に大坂に運ぶには、牛馬の背や荷車ではできません。
そこで考えられたのが、兵庫県南部から瀬戸内海へ流れる総延長96km、流域面積1,730㎡の兵庫県下最大の一級河川・加古川を利用した舟運です。
当時、北播磨をおさめていた豊臣氏の代官・生駒玄蕃(いこまげんば)は滝野村の阿江与助らに船の道を整備するよう命じました。
加古川の浅瀬や岩をけずり、水路を掘って舟が通れるようにして、激しい流れに耐えられるよう高瀬舟を作りました。
それが、1594年文禄3年のことです。
そして闘竜灘では荷物を積み降ろしする必要があったため、その周辺の河岸には舟問屋・宿屋などが建ち並び大いに栄えたのです。
明治6年(1873年)には当時珍しかったダイナマイトでの岩盤の切削によって水路(掘割)が作られました。
それにより、上流から筏に組んで運んでいた木材を解体することなくそのまま流せるようになったのです。
やがて大正2年(1913年)に播州鉄道が開通すると荷物の運送は鉄道へと移り変わり、320年続いた高瀬舟(舟運)は姿を消してしまいました。
舟運は姿を消したものの、闘竜灘は加古川中流の名勝地として、また飛び鮎の名所として名高く、観光客の足は途絶えませんでした。
隣町の西脇市が播州織の生産地として繁栄を極めたころは、経営者の多くがここで宴席を設けたため、料理旅館が建ち並び繁盛していたといいます。
しかしその後、残念ながら火災などにより、現在残っているのは現在『滝寺荘』(当時の『もみじや』)だけになってしまいました。
【世界に一つ!加東遺産】鮎漁
闘竜灘では現在、加古川漁業協同組合がこの日に稚鮎の放流を行い、関係者らが加古川の安全と鮎の成長を祈願しています。
5月1日は鮎漁解禁日
闘竜灘では、地形や鮎の習性を生かした鮎漁が盛んに行われてきました。
かつて姫路の殿様に初物を献上した習慣から、毎年5月1日には鮎漁が解禁になります。
闘竜灘の筧(かけい)漁
闘竜灘の滝という障害物を利用した筧(かけい)漁は、一見の価値あり。
筧(木桶)によって流水を引き込んで人工の滝を作り、鮎を川のぼりさせて仕掛けの穴へ落とし込む漁法です。
鮎漁とともに、この筧漁も毎年5月1日から始まります。
『花まつり鮎まつり』
釈迦の誕生日を祝う花まつりと、鮎漁に合わせた闘竜灘の川開き……。
これらを祝い加東市では毎年5月3日『花まつり鮎まつり』を開催。
夜には闘竜灘周辺で北播磨では一番早い花火大会が行われ、初夏の風物詩として広く親しまれています。
連載企画【世界に一つ!加東遺産】今後もお楽しみに
満を持してスタートした【世界に一つ!加東遺産】シリーズ、第一回は”闘竜灘と鮎漁”。
今後もかとうトリビューンでは、世界に誇る加東遺産をどんどん取り上げてまいります。
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(画像提供元:加東市(広報)・加東市教育委員会(文化財係)・加東市観光協会)